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なつかしのゼミ合宿より
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2020/1/31〜2/2 雪わずかの蔵王
今年も入道が休み。2年続き。ぎっくり腰でダメだって。 50何年ぶりに雪が少ない年になった。ハイムの玄関前に雪の階段が出来ていない。 それでも、今年の目玉は「夜の樹氷原クルージング」でした。ユートピアまで蔵王ロープウェイで、そこからクルーザーに乗って樹氷原コースの中間位まで登ると、ライティングをしています。幻想的な風景です。
ニセコのリフト終点にもある 遭難予防の鐘
爺さんはロッヂの寝床で音だけ聞いた
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2019/3/8〜10 ピーカンの蔵王
入道がインフルエンザのばい菌だらけ。自分はまだ移っていないがばい菌を運ぶことになると言って不参加になった。 すくも田(71年)、男全(95年)、山北明子(96年)・将太、山羽(97年)・美喜子(98年)・裕大の4家族と若山家2名で、今年は9人が揃った。 珍しいほどのお天気で汗かくほど暑い日がいる間中続いた。 4月からは将太が3年生、裕大は6年生になる
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爺さんビックリ |
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撮影:すくも田写真館 山羽写真館 |
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2018.3.16−18 アイスバーンの蔵王 1日前、15日に蔵王入りしたのは2期生のスクモ田一人。本隊が到着する前に一人でガンガン滑った。今年、70になる爺さんだよ。 16日、最初に若山家、次に山羽家(父さん以外3名)、山北家3名、荻原入道、終電で山羽と11名が揃った。 今週に入ってから全国的に春の陽気となり、蔵王の山では樹氷が全部融けて落ちた。ゲレンデもびしょびしょに融けて、16日になって寒さが戻り、全山アイスバーンでカチカチになってしまった。最悪の事態となった。 でも、お天気だけは青空となった。
ロッヂの前に集合(撮影:秀子先生) ロッジをバックに ケーブルを降りてダイヤモンド前 ここで、入道・すくも田は緩斜面で練習、ことりはあたりを散策、残りは山頂に向かった。
一方、入道とすくも田の二人は
日の出
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2017.3.3−5 ガスの中の蔵王 例年と同じく1期生の荻原入道と2期生のすくも田2人組は前日の2日に蔵王入り。その他は3日に到着しました。昨年も訪れてくれた米沢に近い長井市に住む76年卒の舟山が差し入れを持って4日に来てくれました。母親の介護中で滑りも泊りも出来ません。車で飛んできたのです。 4日は朝から曇っていましたが昼前から雪も激しく降りケーブルを降りたら前が見えません。ダイヤモンドで滑っているであろう皆を探すことは不可能です。高鳥をすぐに降りてきましたが、全く視界がゼロで上の台のゲレンデに降りてきてやっと下が見えて来ました。したがって、それ一本!
山北将太 山羽裕大 わかG 男全和也 荻原 ここに写っていない人、舟山芳吉、山北正宣の2人。
最終日の午前中、じいさんはロッジで片付け。 こんな青空とは・・・
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2016.3.4−6 暖かい蔵王合宿 今年も昨年に続き3月の第1週に蔵王に集まりました。今年は例年にない暖かさ、まるで4月の陽気でした。 爺さんグループ3人、荻原賢一入道(1期)、すくも田康司(2期)、OBになって初参加の丸貞二(7期)は3日(木)からハイムに乗り込みました。 4日(金)からは山北家は山北明子・将太と山羽家は山羽美喜子・裕大と母子参加で、珍しく旦那が居ません。男全家は2年ぶりに一家4人、男全夫婦、和也、七美の参加で、若山家2人を加えて総勢13名のスキー合宿となりました。 山形県長井市には丸と同期の舟山芳告が住んでいます。地元ですからスキーは達人ですが、親の介護で泊まりに来て一緒に滑ることが出来ないところを、お土産をもって車で会いに来てくれました。舟山は第1回のOBG会(1985年)に出席している。30年振りだった。 昨年、参加した若山家2女、栄子は1月に2人目の女の子を出産で、3年後にならないと来られません。
男全七美 山北将太 わかG ことり 山羽裕大 男全和也
撮影:すくも田康司・山北明子 |
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2015.3.6−8 穏やかな蔵王合宿 去年の2月、未曾有の大雪が降り続き年寄りは1本も滑らずに逃げ帰ってきました。 今年は3月に戻しました。総勢16名のにぎやかな合宿が出来、山頂のお地蔵さんも見てきました。 昨年、初めて蔵王合宿に参加しようと1期の荻原入道は、夜行バスが昼になって小山にたどり着き、その先は走れないと降ろされました。何とか宇都宮まで来てハイムに電話が入りました。蔵王も雪で埋まっています。山形市内とも断絶状態、宇都宮からUターンして帰ったのです。今年はすくも田と朝の新幹線で蔵王入りが出来ました。 若山家の次女、栄子は高校生のころに参加したことがありました。山羽が4年かM1のころでしょう。18年ぶりにハイムに来ました。旦那の上野雅生と長女雅央(3歳)が初参加。栄子が初めて蔵王に来たのも3歳の時です。 男全家は和也と2人、山北家は将太と親子3人、山羽家は絢子、裕大、4人家族と例年通りの家族参加です。合宿中に石川家の長男弘樹が船橋の県立高校に合格しました。お父さんと同じ高校に進みます。来年は参加が待たれます。
男全和也 ことり 若山・上野雅央 山羽裕大 山北明子・将太
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2014.2.14−16 蔵王127年ぶりの大雪 去年の3月「来年はきれいな樹氷を子供たちに見せたい」というので2月中旬の週末を合宿予定に決めた。 さて、2014年は寒い冬になったと思っていたら2月8日(土)に東京でも大雪、出発の日、14日も朝からどんどん降ってくる。ぐずぐずしていると首都高速も東北道も閉鎖されるおそれがある。わかGは、早起きして10時過ぎに家を出た。フロント窓にはガンガン降りつけてくるが、道路は雪が融けているので那須高原SAまでは心配ない。ちゅんちゅんがいつもおしっこをするドッグラン脇の芝生は雪で覆われている。一番雪の薄いところでおしっこ。 那須から白河へ下る山道も積もるほどではない。次のおしっこはいつもの国見SA。芝生の出ているところを見つけて無事おしっこ。ちゅんちゅんは芝生のおしっこが好きだ。足におしっこが流れてくるのが嫌なのだ。 3年前、ここで2時46分大地震が起こった。そのお蔭で注文した「牛タン丼」を食べ損なった。今年はそのリベンジをしてきた。
14日に東京地方を襲った南岸低気圧が北上し東北地方は吹雪となった。来る前の予定では15日(土)に山頂まで行って樹氷見物だったが、猛吹雪となった。午前中はケーブルもリフトも動かず、午後になって上の台第1リフトだけが動き出したというので子供たちは元気に滑りに行った。爺さんは板も靴も3階から下ろしても来ない。
初めての将太もソリは面白くないらしく、スキーを履いて初めて山羽が股の間に挟んで滑った。面白かったらしい。若ゼミに3歳のスキーやが誕生した。 山北 山北明子 山羽美喜子 山羽 岸宏 三佳 男全 山羽絢子 ことり わかG すくも田 山羽裕大 男全和也 山北将太
今年から山北家の長男、将太(3歳)が初参加
今年は1期生の荻原賢一が来ることになった。14日の山交夜行バスで来ると言う。15日朝に蔵王温泉バスターミナルに着くので、初めて来る荻原入道には乗換えがなくていいと思った。
ところが関東地方は大雪、バスが出たけれど高速に乗れず一般道を走り出したらしい。連絡があったのが夜が明けて15日の昼頃、まだ古河の辺りだという。次の電話では「小山駅でバスから降ろされた。宇都宮に来たがどうしよう?」という連絡で山形まで来てもタクシーも山を登れない。やむなく荻原は宇都宮から電車で帰っていった。それが正解だった。来年の合宿に来ればよい。 それに引き換え、2期生のすくも田は11日から1人だけで蔵王入り、天気もよくて学生並みにさんざん滑ったようだ。リフトを1日に28回とか乗ってお駄賃に無料の食券を2回ももらった。全部食べたらしい。 15日の大雪で蔵王は孤立状態となった。蔵王に上ってくる車は雪の吹き溜まりで立ち往生。車を置きっぱなしで人間は避難してきた。バスも横倒しになっていると言う。山形と蔵王の交通は断絶した。蔵王の駐車場はことごとく車は雪に埋まってしまった。道路も除雪をしなければ車は通れない。 15日から16日になっても吹雪は続く。すくも田も山北も月曜は会社に出ないとならない。山を降りるのを諦めていたすくも田を車に乗せて山形駅に送ってくれる人が見つかった。3時11分発の新幹線も運転するという知らせが入った。同じく諦めていた山北旦那もタクシーが夕方6時に1台来てくれることになって男全親子と3人は山形駅まで下って行った。山形新幹線も何とか動いて2時間遅れで帰ることが出来た。
蔵王に残りもう一泊をする予定だった若山家、山羽家と残った山北母子は夕食も終わり諦めてのんびりしているところに知らせが来た。「スカイパーキングの駐車場まで除雪が出来た。それに山形道も8時頃に開通した」という。ハイムのイントラとプロゴルファー4人グループが駐車場で埋もれている私の車を掘り出し、出口までの道を除雪してくれ、今のうちに出発しろという。8時過ぎだった。大急ぎで帰りの用意だ。若山車に山北母子を乗せ出発した。樹氷橋回りでバス道を下り、県庁前を抜け山形蔵王ICから山形道に乗った。降りつける雪がライトに反射し真っ白で前が見難い。笹屋トンネルを過ぎると雪が小降りになった。 福島までは順調に走ったが、福島松川から渋滞し始めた。二本松を通る頃は「福島西から本宮まで25km渋滞」と看板が出ている。止まったり少し動いたり、のろのろ運転が続く。半数以上は物流会社のトラックだ。二本松辺りからは左の路肩にトラックの列が駐車している。百台、2百台というトラックが駐車して窓にカーテンを引きお休み中だ。 彼らは矢吹で通行止めになっている情報を知っていて、解除されるまで寝て待っているのだそうだ。走行車線にはみ出しそうなトラックもいる。雪があって左に寄れないからだ。それで走行車線を走る車のスピードが落ちて渋滞の原因となる。東名高速では深夜料金で通行料を節約しようと、海老名SAでは時間調整のトラックで一杯になる話があるが、この日の駐車はそういう目的で止まっているのではないらしい。 蔵王を出てからトイレ休憩も取っていないので安達太良SAに入ろうとした。路肩に駐車しているトラックの列はSA内まで続き、小型車の駐車スペースへの入り口もトラックの列がふさいでしまって中に入れない。そのまま、真っ直ぐ出口から出るしかない。出口からまだトラックの駐車列は続き、少し先にある本宮の出口の手前までつながっている。その間、のろのろ走っては止まり、止まってはのろのろと進むだけだ。
郡山辺りは何とか走っているが、常磐道は途中からストップのようだ。郡山南のICの手前から動かない。4号線に出て暫く一般道を走ることにした。山羽車も矢吹ICまで通行止めの情報をネットで見て同じく郡山南で4号線に出て矢吹から東北道に戻った。若山車は鏡石と矢吹の間のシェルのスタンドで給油をした。 じつは3年前、大地震で東北道が封鎖された3月12日の帰り道で同じスタンドで満タンにした。前回の大災害の時と同じ街道で今回の大雪非常事態の帰路でガソリンを入れ、トイレ休憩もした。何とも不思議な縁だ。前方にこのスタンドが見えてきたときの懐かしさは何とも言えないものがある。 3年前は福島の市街を出たところのガソリンスタンドが長蛇の行列だがガソリンを入れてくれた。市内は停電でスタンドは営業していない。ただし、2000円分しか入れてもらえなかったのだが、このシェルのスタンドではセルフで満タンに出来たのだった。ここで満タンにしておけば、途中で余程のことがあっても東京まで十分のガソリンだ。 矢吹からは順調に走って浦和の料金所で東北道を出て浦和の山北母子の家まで送って行った。将太は眠い目をこすって車を降りたが、半分寝ているので抱っこして玄関まで運ぶ。そこからは東北道には戻らず、新大宮バイパスの戸田から乗り、首都高へと走り5時半頃帰宅した。玄関で守衛が起きている。「早いねえ」と言ったら、新聞屋が来るのだといっていた。
もうひとつ、16年前にゼミ合宿に合流した佐々木マリが旦那と犬を連れて遊びに来た。2月の始めに結婚したばかりで、倉金マリになっていた。雪の降る中14日の夜の飲み会と15日の午前中にワン公を連れて見せに来た。2000年代になってボードを始めてインストラクターになってしまったという変わり者。昔はジャズ歌手。(2014/2/17)
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2013.3.22-24
岸 宏 岸 真 山羽・美喜子 ことり・ちゅんちゅん 男全
子供は「ちょき」 じいさんは「ぐー」 爺さんの勝ち 来年はきれいな樹氷を子供たちに見せられるよう2月14,15,16日に合宿を予定します。
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2012.3.30−4.1
教え子達の子供達と蔵王合宿が出来るようになるとは何と幸せな先生だ 4月1日の上の台 誰もいない 男全が撮影した4月1日の霧氷だ。 エイプリルフールではありません。 お地蔵さんもまだこんなに埋まっています。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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2011.3 東日本大震災 この年は3月11日(金)から現役42期生最後の合宿だったのですが、2時46分、あの巨大地震が発生しました。新幹線はすべて止まり、高速道路はすべて封鎖となりました。若山車は午前中に出発しましたので、福島・宮城県境の「国見SA」まで来て、休憩中にドカンと来たのです。 ⇒ その詳細
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9月の合宿は夏休みの卒論研究の中間報告会です。 1日目の夜と2日目の午前中に行い、その後はハイキングです。 昭和46年卒、2期生の寒江君が卒業以来初めて来てくれました。
20年前と滝の形、流れが違っている。1991年の写真と比較すると面白い。 ⇒ ラスト夏合宿 ■ ■ ■ ■ ■
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2010.3
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2006.9
この写真は霧の中の写真を修整したものです。元のファイルがあったら送ってください。 この学年はソフトボール大会で優勝しました。
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この時代はスキーヤーはいなくなりました。 皆ボーダーです。 ■ ■ ■ ■ ■
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2005.9
相原聖子 近藤明香 村田 澤田 原田 大道 守野 井橋 岸宏 この合宿は大事件の年だった。 明香の運転する女子の車が何と関越に乗って新潟に行ってしまった。 ここで電話が入った。「村田から山形道で山形蔵王で降りて、西蔵王有料道路から蔵王温泉」 冬季は閉鎖している道だが夏は通れる。こんな道を走る車は今どき1台も無い。 さすがにお釜には向かわなかったが、ユートピアからパラダイスに向かう 引き返して、アストリア・ホテルの道に入ってホテルに着いた。 それで迎いに行った。5人がぐったりとして駐車場で死んでいた。 カーナビがいけない。私はカーナビが嫌いだ。 道路をネットワークのデータ構造で記憶しておくことは、 現実の問題を抽象化して考えるのはORの常道である。 2011年の正月に毎日新聞で ■ ■ ■ ■ ■
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中さんは大病の後、体力の回復した1999年4月から若ゼミの一員になりました。 2010年暮に急激にすい臓ガンが進行し2011年1月11日に亡くなりました。 孫を連れて蔵王に来ると言っていたのに・・・
この日は天気が悪く真っ暗な写真でしたが、ここまで明るくしました。 これ以上やると雪が真っ白になって飛んでしまいます。 ■ ■ ■ ■ ■
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2004.9
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 ちなみに、山寺を登りきるには1015段の階段を登らなければならない。 ちゅんちゅんは抱っこのままで登りました。 ■ ■ ■ ■ ■
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2003.9
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2000
真理ちゃんがユニークなアルバムを作りました。 このアルバムには普通の写真は一枚もありません。 中本美智子は12月に出産しました。それで中村になりました。 卒論発表会には出られません。彼女だけ別途、古林さんと私とで卒論審査をやりました。2人で審査すれば誰も文句をつけるものは居ません。古林教授は授業ではよく怒鳴りますが、心は親切のかたまりでした。 古林さんと出会ったのは、古林さんが東大の計数工学マスター1年、私が慶應の管理工学マスター1年のときの夏休みだったのです。国立大学に居たのに20年勤めた後で「若山さんのところに行く」といって私の所に履歴書を送ってきました。そうして経営工学科で70歳になるまで勤め上げ2012年3月に定年退職しました。 在学中に出産は経営工学科の歴史の中でこの年だけです。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1999.9
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1998.9
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1997.11
もう雪が降りました。 11月の合宿は珍しい年です。 9月に何か外せない用事があったのですが、何だったか忘れてしまいました。
小高・中西・柴垣・高橋・大谷・倉持 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1997.6
この時代、3年くらい通いました。 ここはラグビーの松尾雄治が建てた別荘ロッジ村です。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1997.3
夏みたいな景色ですねぇ。 ■ ■ ■ ■ ■
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28期生が3年生で固まっている。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1995.3
大高あっこちゃんの持ってきた写真です。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1994.3 スキー全盛時代のゼミ合宿には代々のOB/OGが来ます。
(クリックで拡大写真) 昔はこの地蔵が雪に埋まってしまい、雪の中に隠れる時代がありました。 そうすると息が出来るように穴を掘ってやります。 穴の上から覗き込んでお参りします。
地蔵から一気に降りてきたところです。 樹氷は綺麗だねぇ。
蔵王に来たことがない人には、この世にこんな美しい景色があることを想像できません。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1993.3
この写真では、三宅夫婦、石川(依田)夫婦がいます。 ハイムのインストラクター寒河江隆がいる。彼に習って上手になったゼミ生多数!! 寒河江さんは金山町役場勤めでしたが、書道の達人で
唐筆の珍品をお土産に持って行ったことがあります。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1992.9
村松一家が来てくれた。村松は2011年2月28日、55歳の若さで先に逝ってしまった。 これが家族連れの皮切りとなった。 この日、子供達も地蔵の山頂まで登ったのだ! ◆ ◆ ◆ ソフトボール大会 1992/6/26 このメンバーで戦った ■ ■ ■ ■ ■ |
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1992.2 この写真は上の台から蔵王ケーブルを降りて左手の山の上です。 ダイヤモンドバレーの帰りのリフトを降りたところの高台に登ったところです。 昔々の第3リフトの終点付近です。 ■ ■ ■ ■ ■
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1991.9
この年のゼミの結束は強かったね。みんなにパパと呼ばれたゼミ長波多野がいたから。 そのゼミ長が滝つぼに入った。続いて中村和也も。 パンツが脱げるかと思った。
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1991.2
23期生:小寺 山内 徳永 橋本 若山 中村 波多野 広瀬 由美子 朋子 小寺は残念ながら早世した。元気だったのになぁ。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1989.9
この時代は夏はダリヤが一杯咲いていた。
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1989.3
武田 山本 桜澤 粕谷 原 永瀬、飯島、 関口、三宅、高橋、大畑、喜美子、由利子、美智子、若山、中山、ゆみ子、知子、塚田 89年卒(20期)、90年卒(21期)はゼミ生が5人ずつと少ない年回りでした。 でも、この2年でゼミ内結婚2組(大畑組・塚田組)の大当たり年です。 後になってわかったのですが、塚田がそんなに上手ではないのに ■ ■ ■ ■ ■ |
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1988.9
松田 永瀬 山本 若山 武田 張 高橋 大畑(野村) 大畑 張さんは中国北京から研究員として来日しました。 「どうせ勉強するなら、 修士の資格を取りなさい」ということで、 どうしているかなぁ。 考えてみると、あの柵の向こうは立ち入り禁止です。
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1987.9
また、道の真ん中で集合写真。若ゼミの特許!
豊島 田村 若宮智子 秋山泰子 佐藤恵津子 宮様 おやすは冬の合宿で捻挫して大変だった。 宏校長がおんぶして駐車場まで運び、診療所に連れて行ったのを思い出します。
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1987.3
粕谷 飯田 及川 菊池 榊谷 若山 山本 関口 三宅 桜澤 中山 飯島 この写真も飯島を入れてやりました。 飯島はカメラマン専従のことが多いのです。
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1986.9
泉田 榊谷 山本 飯田 中山 小平あゆみ 飯島 及川 河内英恵 斉藤 松沼千夏子 軒山里江子 山本 江頭真理子 若山 岸宏 中山 (不思議なことに山本浩樹が2人いる) 初めてのひげ写真です。 2004年にアジア・太平洋地域のOR学会連合の事務局長に指名されました。人種も違い、言葉も違い、政治体制も違う国の人たちを仲良くさせられるのはお前しかいないとおだてれて就任したのです。でも、私を選んで正解でした。初代は韓国から、2代目は中国から会長を出しました。3代目は日本、4代目はオーストラリアでした。その12年間皆さんの世話をしました。各国からニュースを集めてNews Letterを毎月だったか、隔月だったかに郵送配布しました。現在のようなプリンターはありません。ブラザーのデージーホイル・タイプライターにマイコンからデータを送りプリントしたのです。 日本人はただでさえ若く見られてしまうので、ひげを生やすことにしたのです。
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1986.2
85年卒と86年卒、それに方倉が乱入 方倉からメールが来ました。「でも,なんでわかるんです?乱入したのがわたしと・・・」 「だって、モコが嫌がっているだろ」 金本がいない! そうか、カメラマンかぁ。可哀相だから入れてやろう。
これから貸し切りバスで東京に帰ります。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1985.9
白い板はなんだと思いますか?こんな写真が出てきました。
これは凄い、It's awesome! 白い板はホワイトボードでした。 勉強なんて何処ででも出来ることが証明されました。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1985.2 上の台ゲレンデ、後ろは龍山です。 岸 英三会長が写っています。大正11年戌年です。 これはスクールの専属カメラマンだった篠木 真が撮ってくれたものだと思います。 淳ちゃんがいますが、思い出しました。 「会社の研修で蔵王に行けない」といって泣きました。 社長にすぐ電話をしてやりました。 「若山ゼミの学生は研修なんて出なくて結構です」 当たり前だよ!!
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1984.2
岸 宏がいます。 まだ、2代目校長になる前だと思います。 ■ ■ ■ ■ ■
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1983.9 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1983.1
関口 小田 穂垣 坂田 松本 典子 永瀬 後藤 杉江 ? 1月で雪が少ない! この写真は3枚の原画の合成です。関口と坂田がカメラマンで交代して撮りました。 地蔵の頭に乗っているのはおまけです。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1982.8
関戸 穂垣 松本 永瀬 小田 山岸 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1982.3
後藤(3年)、畑、竹林、飯島、中山、伊藤(4年)、若山、松本(3年)、村松 4年生が一人かって?
OBは先に帰ったらしいです。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1982.1
この学年は蔵王合宿を冬と春にやっています。 この学年は特に優秀でした。もう、暮には卒論の目途が立っていました。 それで正月にのんびりと蔵王で遊びました。 正月にはこのようなどピーカンの日があったりします。 見てください、快晴です。 和田さんと中村はここまでは上がって来られません。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1981年9月か10月 82年卒の若ゼミ(卒業アルバムの写真) この中には金時計がいます。一番優秀な学生を抱えたゼミでした。私は鼻高々でした。 蔵王の夏合宿で初めてテニスをやりました。学校に帰ってから毎週テニスコートを借りてやっていました。伊藤勝は私に勝てません。その後、毎年夏の蔵王にテニスの挑戦に来ました。3年くらいしてやっと勝ちました。これで思いを果たしたので合宿には来なくてもよくなりました。この写真はその伊藤から送られてきました。(2013/1/11) 山岸正知 荒井純一 岡山尚 中村守仁 土屋英彦 村上佳央 和田みどり わかやま 伊藤勝啓 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1981.2
笠間 入江 中河 藤本 畑 若山 金子 小野 川崎 この時代はダイヤモンドバレーも見返りリフトもありません。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1978.9
この年のゼミ10期生は5名 知沢(OB) 五本木 真壁 五味 若山 小長谷 大峰 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1978.2 ここは蔵王の天国 1978年2月、蔵王の主峰熊野岳頂上(1841m)です。
天野と村松が交代して撮った写真の合成です。 その写真を元に画像処理をして、この美しい写真が出来ました。 大部分のゼミの本隊とは地蔵山で別れ、屈強な4人だけで熊野を目指しました。 しかし、ここは天国でした。 吹雪かれたら本当の天国になります。 沢山遭難して死にました。 この年は体育会山岳部主将竹林がいたので2月にもかかわらず、 地蔵山の頂上からさらに熊野岳まで登ってしまいました。 冬季にここまで行ったのはこの年だけです。 日本海と太平洋が見えました。 村松にこのページを見せたかった。
鈴木 飯島 加藤 若山 天野 竹林 知沢 村松
竹林 関口 中山 天野 伊藤 落合
スキーをやらずに麻雀をやりに来た人がいた。織田と嶌田かなぁ? 嶌田は革靴で来た。ロッヂ前のゲレンデに出る最後の坂が上がれなかった。 両脇を抱えられてハイムのロッヂにたどり着いた。 それにしても、朝日連峰がはっきり見えて綺麗だ!! ■ ■ ■ ■ ■
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1977.9
道のど真ん中で集合写真を撮るのは若ゼミの得意技。
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1977.3
このシーズンは会員だった赤倉のレインボークラブに行った。 このクラブも後に倒産しました。 紅一点美恵子の後ろにガラの悪い黒メガネをかけているのは城川助手。 城川君は田中ゼミの出身で、法政の助手から東洋大学に移籍した。 現在は経済学部総合政策学科教授です。 美恵子はOR学会の事務局で長年働いてくれました。 ■ ■ ■ ■ ■
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1976.12
八王子に関東地方の国立・私立大学が協同でセミナーハウスを1965年に開館しました。 若ゼミもここで合宿し発表能力を鍛えられました。厳しいゼミでした。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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1976.3
蔵王ハイムではなく温泉街のほうに泊まった。 私は何かの理由で行かれなかったらしい。 思い出した。この年の1月に自然気胸とやらで肺に穴があいて ドクターストップはくそ食らえ。 それで春に蔵王に出かけてスキーは滑れる。 4月になってからは、ゴルフもやった。 年取ったお医者さんは耄碌している。
加藤の長髪に注目。 加藤君は2008年から3年間、増田寿男総長の下で法政大学常務理事になった。 ■ ■ ■ ■ ■
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1975.9
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1975.3
伊達 戸室 高林 鹿児島 河野 増岡 宇野 小山 沓 中村 若山 宗村 加藤 長田 (新井が写真を撮ったらしい) ■ ■ ■ ■ ■
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