よけいなお話 1


実際のデータを集めて、データの癖をいろいろな角度からながめると面白い知見が得られます。その数学的な理屈と方法を「数理統計学」が教えてくれます。データを調べることによって嘘も見破ることが出来ます。よく、データでごまかされて泣く人が多いのです。データの氾濫している今日、数理統計学をうまく使ってデータ処理をして、ものごとの判断をすることが要求されるわけです。

大体の人は高校生の頃に「確率と統計」なんて、ちょっとだけかじらされてたちまち嫌いになってしまっています。もったいない話ですね。嫌いにさせるなら教えなければよいのにと思います。

それから日本式の教育制度というのに昔から疑問を持っていました。なぜかというと、人間皆違うことを前提にしていないからです。違う種類の動物を1つの檻にいれて、同じ訓練をしようとする調教師、それが今の学校の先生のおかれた状態です。先生も生徒も可哀相なのです。そうさせたのは言わずと知れた文部省というお役所です。サボテンとチューリップを同じ鉢に植えて毎日水をやってごらんなさい。まず、サボテンが腐ります。

明治時代、日本に学校制度が出来る頃、福沢諭吉と森有礼とが教育の方法論を巡って論争をしたという話しが伝わっています。福沢諭吉の論旨は明治7年の「学問のすすめ 4・5編」に書かれています。明六社に集まった近代思想の知識人のひとり、森有礼は教育は国家の興廃に関わる一大事として「教育の官立為業」を説き、福沢諭吉はそれに異議を唱えて「私立為業」を説いたのです。

「国の文明は上政府より起るべからず、下小民より生ずべからず。必ずその中間より興りて、衆庶の向かふところを示し、政府と並び立ちて、はじめて成功を期すべきなり。」と書き出す件(くだり)がありますが、そこでは「教育は人間個人々々の問題であって、誰もが学ぼうとする気持ちを持っている。だから学ぶことによって自分で考えることが出来るようになる。教育とは教え導くことではなく、一人ひとりがその天稟を伸ばすことにある」といい、「国民一人ひとりが独立し繁栄して、はじめて国家も独立し繁栄する」という考えを示し「教育の私立為業」の大切さを説いたのです。

そうなると、そもそも「教育」という言葉が気に食わなくなります。「教え、育む」では独立心は養えません。こどもは、常に教えてもらう、育ててもらうの受け身になってしまうのです。花を美しく咲かせるのに「教育」は必要ありません。自らが育つ環境を与えてやればよいのです。

太平洋戦争の終結と共に、我が国はすべてが180度ひっくり返されたといわれていますが、どっこい、教育という概念は100年前のままだったのです。「あかい あかい あさひ」から「みんな いいこ」に教科書を変えただけだったのです。一旦、官立為業になると、すべての変革は小手先だけで、根本的な改革は出来ないのです。官僚任せの国は既に自己組織性を失った国と言えましょう。こんなことの分らない日本人ばかりがうじゃうじゃ住んでいるところにいるのかと思うと苛々してきませんか。

教育の荒廃が叫ばれる今日、福沢の精神に立ち返ることの重要性を誰も声を大にして書かないのは何故だろうと不思議でしようがないのです。