なつかしの蔵王合宿より

冬の蔵王合宿は若ゼミの語り草です。卒業してもみんな集まってきました。21世紀になってからは、子供も大きくなって家族で来るようになりました。研究室の片付けをしていたら懐かしい写真が沢山出てきました。その一部をご覧に入れます。今となっては貴重な写真です。

新しいものから古いものへと遡っていきます。

この10年はスキーは学生にとって魅力あるスポーツから遠いものとなりました。スキーは一朝一夕に滑れるようになりません。昔々、それこそ50年くらい昔、一人前に滑るには100日スキー場に通わなくてはならないといわれました。1年に30日滑っても3年以上かかります。それで、蔵王ハイムのようなスキースクールが全国のスキー場にできるようになったのです。

スキースクールは効率よく、順序だててスキーの基礎から応用までを教えてくれます。

スキーには「スキー教程」という教科書がありました。私がはじめて読んだのは「オーストリー・スキー教程」でした。オーストリー国立スキー学校のシュテファン・クルッケンハウザー教授が1955年に発表したスキーの練習の教程を書き綴った書物です。これをドイツ語が得意だった法政大学の体育の教授、福岡孝行氏が翻訳し出版しました。これは日本の一般スキーヤーのバイブルとなりました。

オーストリー・スキーが日本で流行りかけた頃、オーストリーのスキー教師についてその指導法を勉強しました。その直後に蔵王の岸 英三師匠と知り合ったのです。このオヤジを私のスキーの父に決めました。後ろをついて滑ってスキーの本質をたくさん盗みました。

1960年代は、私の先生達、友人達、後輩達に自分が会得した楽しく美しく安全なスキー術を教えてきました。

しかし、1970年にヴェーレン・テクニークという新技術が生まれ、翌年、新教程が出版されました。スキーが普及し流行しました。そのためスキー場のゲレンデが一面こぶだらけになったしまいました。スキーヤー自身が小回りの回転をして雪を削り取って滑るので凸凹の斜面になったしまうのです。これは日本だけでなくオーストリーでも同じでした。

そんな「こぶの斜面」を滑る方法が考え出されました。見掛けは全く違ったスキー術でした。それまで一生懸命に磨いてきた滑りが「お前のは古い」の一言で片付けられてしまう思いがしたものです。

すぐ後になって気がついたのですが、スキー術が見かけで如何に変わろうともエッジで滑り、コントロールするという本質は何も変わらないのです。エッジを上手に使うために身体をどう動かすかということに話は尽きます。それにはいろいろな方法があって不思議ではありません。その後は何を言われても平気になりました。悟りの境地というものです。

このようにスキーの技術は日進月歩を地で行くものでした。用具も進歩しました。それによって滑り方も教え方も変わりました。もう、この40年新しいものを次々追っかけることはしていません。20代の頃は夢追いだったのです。

伝統ある若ゼミにおいても、時代の流れは如何ともしがたいものがあります。それでも蔵王合宿の火は1983年2月以来、絶やさずに続けて来ました。

というわけで、最近ではスキー写真は残っていません。そういう年度は夏の写真を掲載します。

1957年の冬合宿から、ゼミが決まった3年生やOBが参加するようになり、下の写真を見れば分かるように一見しただけでは何期生の合宿だったのか定かではありません。説明の年度や期のおかしい写真があったら正しい情報を教えてください。それから、君達が保存している写真をメール添付で送ってください。(わかやま・2011年5月)

     


2010.9


2010年9月 42期生蔵王夏合宿
田中光  松崎 石井 檜山(鈴木研OB) 佐藤 星野 米倉 寒江 赤井田絵美 松井香澄
岸宏         永用千央 青柳愉香 石岡夕佳 永瀬 岸三佳
男全 岸英李依・ジンノスケ 男全佑理子・和也 若山 ことり・チュンチュン 方倉

9月の合宿は夏休みの卒論研究の中間報告会です。

1日目の夜と2日目の午前中に行い、その後はハイキングです。

昭和46年卒、2期生の寒江君が卒業以来初めて来てくれました。


ドッコ沼


不動滝

20年前と滝の形、流れが違っている。1991年の写真と比較すると面白い。

    

2009.9


2009年9月 41期生夏合宿 ロッヂ前


上山城  山は曇って行っても霧の中、そこでお城に行きました。
原      壁谷    池田    
国冨  荒川   上田 今井 鹿島
若山  ことり 茉里恵 千恵 淋銘 椎名

    

2007.3


2007年3月 37期生冬合宿 

「一応集合写真です」

若山ゼミ最後の行事である冬の蔵王合宿ですが、参加人数は6名・・・
しかも3年生が一人もいず、 来年の開催が危惧されていますがはたして・・・

とアルバムに書いてあります。

その心配どおり、2008年の38期生冬合宿では4年生はゼロだった。
夏の合宿も卒論中間発表をしたはずだが写真も何も残っていない。

それでも最後まで諦めずに続けましたが、
東日本大震災によって最後の最後に流されました。

2011年は何と3月11日から合宿に入る予定でした。

    

2006.3


2006年3月 37期生冬合宿 ハイムの食堂

この時代はスキーヤーはいなくなりました。

皆ボーダーです。

    

2005.9


2005年9月 37期生夏合宿

相原聖子 近藤明香 村田 澤田 原田 大道 守野 井橋 岸宏
五十嵐美保 菅野真代 若山 ことり 岡田三咲 岸絵李衣 田口  

この合宿は大事件の年だった。

明香の運転する女子の車が何と関越に乗って新潟に行ってしまった。
新潟について電話があった。「磐越道で郡山に出て、東北道で来い」
高速道路に乗らすに何とか新潟から峠越えをして赤柚経由で上山まで来たのだが、
エコーラインに入り蔵王の山越えをして宮城蔵王、白石まで行ってしまった。

ここで電話が入った。「村田から山形道で山形蔵王で降りて、西蔵王有料道路から蔵王温泉」
ところが山形道には乗らず、一般道を来た。笹谷ではトンネルに入る。
笹谷トンネルに入らず、笹谷峠に登ってしまった。トンネルの無い昔は、ここが難所だった。
仙台から山形に来るのには関山峠を走ったものだ。天童経由で来る。
笹谷は険しく、くねくねしてガードレールも無い宮城と山形の県境の峠道である。

冬季は閉鎖している道だが夏は通れる。こんな道を走る車は今どき1台も無い。
でも、よくぞ笹谷峠を越えて山形県に入った。そして、蔵王に上ってきたのだが、
上の台に向かわず、渡ってはいけない蔵王大橋 からまたエコーラインへ。

さすがにお釜には向かわなかったが、ユートピアからパラダイスに向かう
林道に入った。林道の終点はドッコ沼である。この道は舗装も無い泥道。

引き返して、アストリア・ホテルの道に入ってホテルに着いた。
ここでやっと電話してきた。
「バカヤロ、そこで動かずに待っていろ」

それで迎いに行った。5人がぐったりとして駐車場で死んでいた。
東京を出てロッヂまで12時間かかった。

カーナビがいけない。私はカーナビが嫌いだ。
道路地図をネットワークにして頭に入れておけば運転なんて簡単だ。
あんなもの捨てちまえ!
俺は一生買わない。

道路をネットワークのデータ構造で記憶しておくことは、
現実の抽象化ということである。

現実の問題を抽象化して考えるのはORの常道である。
それができない人間が多すぎる。
何のためにORを習ったのだ。
AHPだDEAだ。用語だけ知っていてもしようがない。
ORは方法ではない、哲学なのだ。ものの考え方だよ。

2011年の正月に毎日新聞で
「物事を抽象化して問題解決ができる人間が必要とされている」
と書いてあった。
今頃、なにを間の抜けたことをいっているのだと思った。
しかし、現実はその通りで大学を出ても役に立たない人間ばかりうようよしている。

    

2005.3


2005年3月 36期生 冬合宿 この場所は三郎岳のような気がします。
中里さんが写っています。

中さんは大病の後、体力の回復した2000年4月から若ゼミの一員になりました。
山歩きの好きな中さんは蔵王に来るのが楽しみでした。
ゼミ生の誰も登ったことのない竜山に夏季も冬季にも一人で登りました。

2010年暮に急激にすい臓ガンが進行し2011年1月11日に亡くなりました。

孫を連れて蔵王に来ると言っていたのに・・・


地蔵山の樹氷地帯です。

この日は天気が悪く真っ暗な写真でしたが、ここまで明るくしました。

これ以上やると雪が真っ白になって飛んでしまいます。

    

2004.9


2004年9月  36期生夏合宿 山寺(立石寺)奥の院

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

ちなみに、山寺を登りきるには1015段の階段を登らなければならない。

ちゅんちゅんは抱っこのままで登りました。

    

2003.9


2003年9月 35期生夏合宿 上の台

    

1997.11


1997年11月 29期生 遅めの夏合宿 蔵王お釜
大谷・小高・倉持・入野・若山・栗原(茂木)・中西・柴垣・高橋

もう雪が降りました。

11月の合宿は珍しい年です。

9月に何か外せない用事があったのですが、何だったか忘れてしまいました。
学会があったらしいです。


お釜のレストランの展望台かなぁ

小高・中西・柴垣・高橋・大谷・倉持
山羽(相澤)・若山・栗原(茂木)・入野

    


1997.6


1997年6月 29期生 道志村バーベキュー合宿

この時代、3年くらい通いました。

ここはラグビーの松尾雄治が建てた別荘ロッジ村です。

    


1997.3


1997年3月 28期生冬合宿 ここはユートピアゲレンデのリフト乗り場付近。

夏みたいな景色ですねぇ。

    

1996.6


1996年6月 28期生 道志村バーベキュー合宿

    

1996.3


96年3月とある。 27期生冬合宿  紅葉峠から連絡通路に入るあたりだな。

28期生が3年生で固まっている。

    


1995.3


95年3月 26期生冬合宿 お地蔵さん前です。

大高あっこちゃんの持ってきた写真です。

    


1994.3


1994年3月 25期生冬合宿

スキー全盛時代のゼミ合宿には代々のOB/OGが来ます。 (クリックで拡大写真)

3年生、4年生、OB/OGでごちゃごちゃになっています。

蔵王地蔵尊を囲んでいるのがわかりますか?

昔はこの地蔵が雪に埋まってしまい、雪の中に隠れる時代がありました。

そうすると息が出来るように穴を掘ってやります。

穴の上から覗き込んでお参りします。

雪の量が1m半〜2m位多かったのです。


樹氷原コースのど真ん中で。

地蔵から一気に降りてきたところです。

樹氷は綺麗だねぇ。


すごい樹氷だろ?

蔵王に来たことがない人には、この世にこんな美しい景色があることを想像できません。

    


1993.3


1993年3月 24期生冬合宿 上の台ロッジ前

この写真では、三宅夫婦、石川(依田)夫婦がいます。

ハイムのインストラクター寒河江隆がいる。彼に習って上手になったゼミ生多数!!

寒河江さんは金山町役場勤めでしたが、書道の達人で
唐筆の珍品をお土産に持って行ったことがあります。

    


1992.9


1992年 24期生夏合宿

村松一家が来てくれた。村松は2011年2月28日、55歳の若さで先に逝ってしまった。
悲しかった。

これが家族連れの皮切りとなった。

この日、子供達も地蔵の山頂まで登ったのだ!

    


1992.2


これは1992年2月の蔵王合宿です。 (クリックで拡大)

この写真は上の台から蔵王ケーブルを降りて左手の山の上です。

ダイヤモンドバレーの帰りのリフトを降りたところの高台に登ったところです。

昔々の第3リフトの終点付近です。

    

1991.9


1991年9月 23期生夏合宿 不動滝

この年のゼミの結束は強かったね。みんなにパパと呼ばれたゼミ長波多野がいたから。

そのゼミ長が滝つぼに入った。続いて中村和也も。

パンツが脱げるかと思った。


波多野英行


中村和也

    

1991.2


1991年2月 3年生集合 竜山ゲレンデ 

23期生:小寺 山内 徳永 橋本 若山 中村 波多野 広瀬 由美子 朋子

小寺は残念ながら早世した。元気だったのになぁ。
お葬式では、この連中が泣きました。

    


1989.9


1989年9月 21期生夏合宿 上の台

この時代は夏はダリヤが一杯咲いていた。


こんなことして夫婦になった。

    

1989.3


1989年3月 20期生冬合宿 中央ゲレンデ

永瀬、飯島、 関口、三宅、武田、高橋、鈴木、大畑、喜美子、桜澤、由利子、美智子、粕谷、若山、中山、ゆみ子、原、知子、塚田

89年卒(20期)、90年卒(21期)はゼミ生が5人ずつと少ない年回りでした。

でも、この2年でゼミ内結婚2組(大畑組・塚田組)の大当たり年です。

後になってわかったのですが、塚田がそんなに上手ではないのに
「先生、私が最後から滑りますから安心して滑ってください」という。

なに、由利ちゃんがいつも一番後ろになるからだったのだ。

    


1988.9


1988年9月 20期生夏合宿 お釜

松田 永瀬 山本 若山 武田 張 高橋 大畑(野村) 大畑

張さんは中国北京から研究員として来日しました。
ORの授業に出てきました。日本語がわからなくなります。
そんな時は英語で説明しました。
この年は英語が飛び交いました。

「どうせ勉強するなら、 修士の資格を取りなさい」ということで、
2年目から大学院に入りました。都合、3年間私のところにいました。

どうしているかなぁ。


こんなことして夫婦になった

    

1987.9


1987年9月 19期生夏合宿 西蔵王コスモス街道

また、道の真ん中で集合写真。若ゼミの特許!


おー、誰がいるのかがわかった。

豊島 菊池 田村 智子 泰子 しづ子 恵津子 久美子 宮様

おやすは冬の合宿で捻挫して大変だった。

宏校長がおんぶして駐車場まで運び、診療所に連れて行ったのを思い出します。
おやすも息子が2011年4月に慶應普通部1年生になりました。

慶應の中で普通部から入る子供が一番頭がいい。
これは昔から変わりません。

150人足らずしか入学できないからです。

    


1987.3


1987年3月 18期生冬合宿 三郎の上

粕谷 飯田 及川 菊池 榊谷 若山 山本 関口 三宅 桜澤 中山 飯島

この写真も飯島を入れてやりました。

飯島はカメラマン専従のことが多いのです。

    

1986.2


1986年2月25日 冬合宿 パラダイスリフト上の樹氷の中

85年卒と86年卒、それに方倉が乱入

方倉からメールが来ました。「でも,なんでわかるんです?乱入したのがわたしと・・・」

「だって、モコが嫌がっているだろ」

金本がいない! そうか、カメラマンかぁ。可哀相だから入れてやろう。


1986/2/22 17期生冬合宿


ロッジ前で

これから貸し切りバスで東京に帰ります。

    


1985.9


1985年9月 17期生夏合宿 ドッコ沼

白い板はなんだと思いますか?こんな写真が出てきました。


何とドッコ沼で野外授業をしています。

これは凄い、It's awesome!

白い板はホワイトボードでした。

勉強なんて何処ででも出来ることが証明されました。

    


1985.2


85年2月 16期生冬合宿 (クリック拡大)

上の台ゲレンデ、後ろは龍山です。

岸 英三会長が写っています。大正11年戌年です。

これはスクールの専属カメラマンだった篠木 真が撮ってくれたものだと思います。

淳ちゃんがいますが、思い出しました。

「会社の研修で蔵王に行けない」といって泣きました。

社長にすぐ電話をしてやりました。

「若山ゼミの学生は研修なんて出なくて結構です」

当たり前だよ!!


1985年2月 ざんげ坂樹氷

    

1984.2


1984年2月 15期生冬合宿 ハイム前

岸 宏がいます。 まだ、2代目校長になる前だと思います。

    

1983.1


1983年1月 14期生冬合宿 お地蔵さん

関口 小田 穂垣 坂田 松本 典子 永瀬 後藤 杉江 ?若山?

1月で雪が少ない!

この写真は3枚の原画の合成です。関口と坂田がカメラマンで交代して撮りました。

地蔵の頭に乗っているのはおまけです。

    


1982.3


1982年3月 春合宿 三郎リフト上 OBと 3年生が初参加

後藤(3年)、畑、竹林、飯島、中山、伊藤(4年)、若山、松本(3年)、村松

4年生が一人かって?


後藤和正(3年)  中村守仁  伊藤勝啓  松本寿男(3年)
若山  和田みどり  土屋英彦  岡山 尚

OBは先に帰ったらしいです。

    


1982.1


1982年1月 13期生冬合宿 若山 岡山 荒井 伊藤 村上 土屋 山岸

この頃は蔵王合宿を冬と春にやっていたようです。

この学年は特に優秀でした。もう、暮には卒論の目途が立っていました。

それで正月にのんびりと蔵王で遊びました。

    


1981.2


1981年2月 12期生冬合宿 蔵王ケーブルの終点前です。(クリックで拡大)

この時代はダイヤモンドバレーも見返りリフトもありません。
ドッコ沼経由で中央ゲレンデまで担いで歩きです。

    


1978.9


1978年9月 裏磐梯 夏合宿

この年のゼミ10期生は5名

知沢(OB) 五本木 真壁 五味 若山 小長谷 大峰  

    


1978.2

ここは蔵王の天国

1978年2月、蔵王の主峰熊野岳頂上(1841m)です。

                 朝日連峰             月山
            1978年2月 9期生冬合宿 竹林 充 若山 天野英男、村松三生 
                                       (クリックで拡大)

天野と村松が交代して撮った写真の合成です。
彼らの自作卒業アルバムにパノラマ写真だといって、
5枚くらいの写真を糊で貼り合わせてありました。

その写真を元に画像処理をして、この美しい写真が出来ました。
2日かかりました。

大部分のゼミの本隊とは地蔵山で別れ、屈強な4人だけで熊野を目指しました。
ふわふわの雪が積もっているのではありません。
樹氷と同じく、がりがりのえびの尻尾が山を覆っています。
それ以外の滑らかに見える斜面はクラフトしています。
滑りに自信がないと降りてこられません。

しかし、ここは天国でした。

吹雪かれたら本当の天国になります。
ホワイトアウトという現象が起こります。
それで動き回ると必ず遭難します。

沢山遭難して死にました。
今では地蔵山にさえ立ち入り禁止です。

この年は体育会山岳部主将竹林がいたので2月にもかかわらず、
「先生、あそこまで行きましょう」
「よーし、行こう」

地蔵山の頂上からさらに熊野岳まで登ってしまいました。
竹林は走って登って頂上から見下ろしています。
山岳部主将というのは人間ではありません。

冬季にここまで行ったのはこの年だけです。
竹林のお蔭で、いい想い出です。

日本海と太平洋が見えました。
ちなみに若山君、37歳です。
これは一生に一度きりの写真になりました。

村松にこのページを見せたかった。


1978年2月 9期生冬合宿 ざんげ坂

鈴木 飯島 加藤 若山 天野 竹林 知沢 村松


1978年2月 9期生 ユートピア

竹林  関口  中山  天野  伊藤  落合


1978年2月 樹氷熊現わる

スキーをやらずに麻雀をやりに来た人がいた。織田と嶌田かなぁ?

嶌田は革靴で来た。ロッヂ前のゲレンデに出る最後の坂が上がれなかった。

両脇を抱えられてハイムのロッヂにたどり着いた。

それにしても、朝日連峰がはっきり見えて綺麗だ!!

    

1977.9


1977年9月 9期生蓼科夏合宿

道のど真ん中で集合写真を撮るのは若ゼミの得意技。

    


1977.3


1977年3月 8期生冬合宿 妙高高原駅

このシーズンは会員だった赤倉のレインボークラブに行った。

このクラブも後に倒産しました。

紅一点美恵子の後ろにガラの悪い黒メガネをかけているのは城川助手。

城川君は田中ゼミの出身で、法政の助手から東洋大学に移籍した。

現在は経済学部総合政策学科教授です。

美恵子はOR学会の事務局で長年働いてくれました。
若山ゼミの出身ですから、学会員は皆当時の平井さんを大事にしてくれました。

    

1976.12


1976年12月 8期生 卒論発表訓練合宿 八王子セミナーハウス

八王子に関東地方の国立・私立大学が協同でセミナーハウスを1965年に開館しました。

若ゼミもここで合宿し発表能力を鍛えられました。厳しいゼミでした。

    


1976.3


1976年3月 7期生蔵王春合宿 引率者:加藤・知沢

蔵王ハイムではなく温泉街のほうに泊まった。

私は何かの理由で行かれなかったらしい。

思い出した。この年の1月に自然気胸とやらで肺に穴があいて
スキーとゴルフはドクターストップだった。
しかし、3月末には蔵王で滑りました。

ドクターストップはくそ食らえ。
まず、東京体育館室内プールでゆっくり泳いでみた。
大丈夫だ!

それで春に蔵王に出かけてスキーは滑れる。
何とも無い。

4月になってからは、ゴルフもやった。
これも大丈夫だった。

年取ったお医者さんは耄碌している。
若い医者は頭が悪いというのが一般論。


1976年3月 ユートピアの上「新田平」

加藤の長髪に注目。

加藤君は増田寿男総長の下で法政大学常務理事になった。

    

1975.9


1975年9月 7期生夏合宿 箱根芦ノ湖ホテル

    

1975.3


1975年3月 6期生卒業式

この学年は合宿をやったのか?憶えてない!

    

1974卒 ニセコ合宿