幻の蔵王ゼミ合宿
2011年3月11日の東北地震体験

蔵 王 合 宿

私の田舎は蔵王です。蔵王に行き出したのは大学生になったばかりの頃ですが、1961年〜62年のシーズンに日本のスキー・デモンストレーター第1号となった岸 英三という大人物に出会いました。年が19年違う親子のような年齢差にもかかわらず友達にしてくれました。何を気に入ってくれたのかわかりません。この話は、『岸英三の足跡』のページにあります。


蔵王山

1977年度のゼミ生たちの冬合宿を蔵王ハイム・スキースクールでやることにしました。昔は蔵王というとえらく遠いところだと思われていました。実際、上越や長野のスキー場は東京からは近いのですが、私のスキーの故郷は昭和30年代から蔵王ですから、みんなを連れていくことにしました。彼らは若ゼミの9期生です。

2010年度生は42期生、若ゼミ最後の学生です。夏は久しぶりに不動滝にハイキングに行ってきました。昔のゼミのアルバムを見ると何度か行っています。滝つぼに入った剛の者もいます。

3月11日夕方にはOB・OGや現役が集まります。毎年のことですが、私は家内とちゅんちゅんも連れて車で出かけます。何十年と東京⇔山形を走り続けた変なおじさんです。

11日10時ころに家を出ました。扇大橋で事故渋滞1時間というので久しぶりに美女木ジャンクション回りで東北道に入りました。第1の休憩所はいつもの通り、那須高原SAです。ちゅんちゅんがいつもオシッコをする場所が決まっています。次は国見SAです。2:30前に着いていました。


大 地 震 発 生

何か食べようとレストランに入って牛タン丼と蔵王塩焼そばを注文して間もなくでした。2:46でしたね。ドカンと突き上げて、ぐらぐらでなくグシャグシャと建物が音を立てて揺れ出しました。棚にあるものは落っこちて床にごろごろ転がり、あちらこちらでバタンバタンと物が倒れ、電気のランプはブランコのように振られています。カミサンは普段から地震嫌いでテーブルの下に潜り込んで「わあわあ」言っています。後から聞いたら携帯電話が通じなくてメールを打っていたのだそうです。


国見レストラン

震度6強です。地震に鈍感な私でもこれは凄いと思う。揺れに敏感な人は死ぬかと思うでしょう。3点に注意をはらって監視していました。天井が崩れ落ちてこないか。電気のランプが落ちてこないか。窓ガラスが割れて飛び散らないか。

天井は点検口の蓋がバタンと開いてしまいましたが、天井そのものは大丈夫です。電気の笠はワイヤでぶら下がっていますので、天井が崩れなければ振れても落ちません。窓は窓枠にガラスですから、枠ごとガタガタするだけで割れることはありませんでした。

太った店の責任者が大慌てで「お客さーん、外に出てくださーい!」

これで、牛タン丼食べ損なった!今度行ったとき食べよう。

車にちゅんちゅんが待っています。食堂には入れてもらえないので車で待っていたのです。めちゃめちゃに揺れたはずですが、よく訳が分かりません。すぐには出発せず、30分以上、車の中で様子を見ていました。結構、大きな余震が続けてきます。それでも何台かの車が次々、なんだか急いでSAを出て行きました。

大丈夫なんでしょうか。地震の最中に走り続けてパックリとひび割れた道路の穴に落っこちたケースもよくあります。落ち着くまでは走れません。

ところで、ちゅんちゅんは毎年スキーをします。お父さんの懐スキーです。ロッジで一人で待っているのは寂しいので一緒に連れて行けといいます。子犬の時から滑っています。リフト小屋のお兄ちゃんとも顔なじみです。


2010年3月の合宿 撮影・山羽敦弓

ここで、説明用の地図をご覧ください。@ にいて地震が来たのです。

最初に考えたことは、「如何にして蔵王までたどり着くか」、山形道ができる以前は村田ICで降りて、一般道で宮城・山形の県境の笹谷トンネルを抜けて関沢から山形市内に入る道です。村田から山形蔵王まで完全に出来上がったのは1998年のことです。

携帯電話はつながりにくくなりました。カミサンはメールを打っていたようですが、相手に届くまでずいぶん遅れがあったようです。蔵王に電話をしましたが、ロッジの電話には「込み合っています」でつながらず、校長の携帯にしたら、なんとかつながったが、ロッジはばたばたの状況、取り付く島もなし。


↑クリックで広域地図

@国見サービスエレア ⇒⇒⇒ A白石IC

うちはゆっくりスタートしました。道路がどうなっているか分かりません。案の定、あちらこちらで道路面に段差があったり、ひび割れしたり、路肩が陥没したり、思ったとおりです。でも、何とか白石まで走りました。ここで、降ろされました。

A白石IC 一般道4号線に出て大河原経由で ⇒⇒

倒壊した家屋はほとんどありませんが、屋根瓦が崩れている家が多いです。

⇒⇒ 村田 ⇒⇒ 宮城川崎(ここから猛烈な雪) ⇒⇒ B笹谷の手前

ここまで来て、止まって動かず。1時間以上待った。6時ころになってしまった。笹谷トンネルが通行できないようだ。もうこの道は諦めた。戻ることにした。

見ている間に雪が積もってくる。まるで長野の野沢にでもいるような降り方だ。昔々、炬燵でボサッとしている間に1m積もるのを見たものだ。今年の正月も蔵王でドカ雪に見舞われたが、それと同じく雪がまっすぐ下に向かって落ちてくる。風に舞うなんて優雅なことは一切無い。ただただ真っ直ぐ地面に落ちてくる。そんなものには驚かないが、こんな非常時に実によく降りやがる。

B笹谷の手前 ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒ C伊達町交差点

今来た道を戻った。4号線まで戻り福島方面へ走る。福島の中心に入る手前のC伊達町交差点で止まって動かない。これでは、東京まで帰る気にならない。このまま動くのを待っても先が思いやられる。

C伊達町 ⇒⇒ 飯坂温泉 ⇒⇒ 栗子トンネル ⇒⇒ 米沢

飯坂方面に右折し、13号線で米沢を目指す。飯坂の手前の交差点では信号機が停電で、自動車同士の正面衝突。真っ直ぐ抜けようとした道がパトカーでふさがれやむなく遠回りして飯坂温泉街に入った。飯坂温泉から13号線に向かった。何とか13号線に出た。山形道のない時代に走った道だ。栗子トンネルを抜けて米沢に入る。

米沢は停電がなく何事もなかったかのように明るい。街道筋で2,3のGSが開いている。用意のいい人が列を作ってガソリンを入れている。赤湯を抜けて峠から山形を見下ろすと真っ暗。山形盆地見渡す限り停電らしい。

米沢 ⇒⇒ D蔵王昇り口

D蔵王の昇り口まで来て電話した。宏校長が「登って来ては駄目だ」停電で暖房もできないという。山形でグランドホテルかホテルキャッスルで泊れと言う。

OBの山羽一家が蔵王に電話してきたのは、地震発生後だった。もう、山形には来られない。他の参加予定者にも「合宿には来るな」と連絡をしてくれたそうだ。

D蔵王昇り口 ⇒⇒ EHキャッスル

市内に入って駅前通りのEHキャッスルで泊ることにした。山形市全域が停電、ホテルもロビーだけ発電機でかすかに電気が点いているがその他は真っ暗だし、エレベーターも動かない。

部屋は10階だという。非常階段を懐中電灯で歩いて上がる。爺には結構しんどい。ちゅんちゅんはコートの下に隠して連れてきた。ホテルにお泊まりとなった。

幸いトイレの水は出ていた。部屋の明かりはない。非常用の懐中電灯が1個だけ。ことりが小さいラジオを持ってきたので、それでNHKをつけっぱなし。テレビはただの飾り。さらにうちの奥さんはLEDの懐中電灯まで持ってきたのだ。これは小さいのに明るい!ホテルのは赤暗い昔風の豆電球だ。皆さん、LEDの懐中電灯は優れモノです。電池も食わないようです。ただし、誰が設計したのかアホな構造で、電池入れ替えひとつにも使い勝手のよくないものがある。よく見極めて買わなきゃダメだ。家にあるもう1本は「バカヤロ捨てちまえ!」になった。

さっさと寝ました。朝、9時ころ起きても、まだ停電のままだ。何度も余震があって眠れるものではなかったとは、ことりの話。私は一度寝たら震度4くらいじゃ起きないという人です。顔を洗って蔵王に電話する。電気が復旧していれば、顔だけ見に行こうかと思った。しかし、相変わらず停電で昨夜は室内で2度だったとか。こりゃだめだ。

「もう、合宿は中止にしよう」と打ち合わせた。幸い、誰も来ていない。来たくても来る手段がない。JRは止まったままだし、高速道路も閉鎖。奥州街道を歩いてくる人はいない。

以前は震度0(無感)・1(微震)・2(軽震)・3(弱震)・4(中震)・5(強震)・6(烈震)・7(激震)の8階級に分けていた。平成8年(1996)からは、震度5と6をおのおの弱と強に分けて、10階級で表すようになっている。


帰 り の 道 中

ホテルを10時に出た。13号線を米沢へと走る。ガソリンを入れなくてはならない。ところが、たまに開いているGSでは長蛇の列。並ぶ気がしない。福島で入れよう。また、どこのメーカーだか分からないが、自動車のショールームの大きなガラスがすべて割れて散らばり青いシートで囲ってある。全面ガラスの建物は哀れ、見かけだけのものを造ってはいけないのが分からないのでしょう。

誰かガラス屋さん、鋼鉄より強いガラスを造っておくれ!ガラス中ビルだらけっていう建物はどうなるのだ?頭の上からガラスが降ってくるのを想像できますか?

福島は停電の場所が殆ど。所々の信号だけ点いている。4号線が交通止めで迂回すると、給水所で市民が水をもらいに列を作っていた。水道がダメらしい。福島ではライフラインがアウトなのだ。

町を出た辺りのGSで並んだ。30〜40分くらいで順番がきたが¥2000しか入れないという。これでは那須ぐらいまでしか行けない。でも、仕方がない。でも、ちゅんちゅんは散歩してうんこもした。隣接のスーパーで食べ物、飲み物も仕入れた。

そのスーパーからトイレットペーパーを持てるだけ持って帰る主婦を見ると、これまた昔のことを思い出した。トイレットペーパー騒動である。1973年、産油国が原油70%値上げ発表に、中曽根通産大臣が「紙の節約」を呼びかけた。これが発端となり「紙が無くなる」となって、大阪千里ニュータウンの大丸ピーコックから始まったウンチングペーパー買占め騒動が起こった。東京にも飛び火した。紙が無ければ手で拭けばよい。

白河近くに行って、2回目の給油をした。やっと満タンになったし、人間もトイレに行けた。車は満タン、人間はすっきりした。

福島原発に最も近い本宮、郡山辺りを通過したのが3:00頃だった。後30分後には福島原発の第1回目の水素爆発があったのだ。原発爆発のことは知らずに通り抜けた。知らぬが仏とはこのこと。

もうどこにも止まらずに東京まで帰ろう。しかし、所々で渋滞して止まってしまう。

福島県から栃木県に入っても、街道に面した家々の石塀、ブロック塀はことごとくぶっ倒れている。屋根瓦も宮城と同様、てっぺんから崩れて瓦のかけらが地面に散らばっている。家の中はごちゃごちゃに違いない。

埼玉県に入っても栗橋の手前あたり、訳の分からない渋滞があり、その都度迂回路を探しながら走った。新4号線から逃げ出して旧4号線を走った。

こうやって家に着いたのが山形出発後11時間半、9:30に到着した。下の階に住んでいる娘が鍋を作って待っていてくれた。食い過ぎて腹がはちきれそうだった。

家の中は戦争があったみたいだ。でっかいテレビも台から落ちているし、棚の物は全部落ちて書斎は足の踏み場がない。片づけは明日にしよう。

    

夏・冬とゼミ合宿をやってきた。それが最後の最後になって未曾有の巨大地震に見舞われるとは、どういうめぐり合わせなのか。


ゼミ生の安否

14名の現役ゼミ生がいる。PCメールはどうせ見ていない人が多いので携帯メールから安否調査をしたところ、幸い無事が確認できた。大学にも知らせてある。おそらく若ゼミが最も早く調査が出来たのではないかと思う。

一番心配なのは宮古の中学校の校長先生をしている竹林 充(78年卒、9期生)であった。メールは届いているかいないか分からない。実家は盛岡市内なので電話で確かめた。「充さんは宮古でがんばっています」とのことだった。

21日になって直接電話で連絡が取れた。元気な声で話してくれた。家は流され、学校にも津波の水が来たという。高台に避難していたのだそうだ。体育館は避難所になっているとのこと。こちらのサポートが大変だと言っている。

もう一人は北上市のやはり中学校の先生をしている及川禎彦(87年卒、18期生)である。及川のところは内陸なので津波の心配は無い。メールの返信が来た。無事でいる。

もう一人、最後の学生、鎌田 哲(11年卒、42期生)がいるがまだ卒業式前で東京にいる。実家は花巻だが、家族の皆さんは無事だと言ってきた。

私のように東北地方を旅行中の人がいるかもしれないが、目下のところはそういう知らせは無い。

当日、院生の荒川が研究室にいたので様子を聞いた。研究室の被害はない。


    

正しい知識と情報を

東大原子力系卒業生および有志協力チームから原子力まとめ

⇒ http://smcjapan.blob.core.windows.net/web/index.htm

これは東大・早野教授のツイートをよりわかりやすくまとめたものだそうです。
正確な情報を知る・伝えるためにきっと有用なツールになるはずです。

    

とは言うものの、不思議な景色を見ました。3月9日、地震の2日前の東京スカイツリーです。これが何だ、とはいいませんがクレーンが蛍光灯のように光る光景は奇妙なものでした。普段、夕陽が当たってもこんなに光ったことはありません。

地殻のゆがみのため地表にたまった電荷がスカイツリーのクレーンから放電している現象と思われます。マスコミは何処も伝えていません。

スカイツリーの1年間の記録がこちらにあります。暇な人はどうぞ。

⇒ http://ozsons.jp/Skytree.htm


学位授与式(卒業式)中止

法政大学の卒業式は3月24日に武道館で開催されることになっている。本日、3月16日常務理事会は中止を決定した。これに伴い、卒業祝賀会などの宴会は中止要請が出された。

きれいきれいに着飾った女子学生の姿が見られない。写真も撮れない。なんてぇこった!

こんな話はこの歳になってはじめてのことだ。


後 日 談

●地震の当日、私の同級生たちは厚木のゴルフ場で年に一度のゴルフ会をやっていました。爺さまゴルフ会です。その中に仙台在住の常連がいます。どうやって帰ったのでしょうか。自宅は広瀬川に近い青葉区なので津波の被害は無かったことは分かりますが、どうなっているでしょうか、心配です。

仙台まで3日かかったそうです、13日に到着だそうです。でも、無事に帰宅しました。

厚木から東京まで10時間とか、鎌ヶ谷まで19時間とかかかって帰宅したという報告があります。東京近郊も交通がめちゃめちゃになっていたことが伺えます。私の後輩は両国の自宅から赤坂の店まで2時間半だそうです。

●親友から、代々木上原を夜8時に出て白山の家に着いたのが夜中の1時だ、とメールが来ました。
   11キロ足らずの距離を5時間かけて泥沼の迂回。
  急がば回れは大間違いで、いつもの最短距離をじっと我慢が正解だったのか?
  あれは東京大震災の予行演習。信号があっても関係なし。
  あの歴史的大渋滞を二度と経験することはないでしょう。
  震災時、車が絶対動かないことだけは学びました。

●フルバンドのバンマスから「戦前派はタフだ」「戦争経験者は根性が違う」というメールが来ました。そうじゃないのよ。40年以上前から、宮城・山形への道は芭蕉ではないが高速道路なんてできる前から通って来たのだ。幹線の道路知識はもとより、逃げ道情報もポケットに入っているのだ。昔、栃木が連休のUターン渋滞で、郡山から49号線で常磐道に抜けたこともある。ジャズ歌手がいろんなアドリブフレーズを持っているのと一緒。周囲の状況に合わせて歌うことができるんですよ。

●新聞記者だった後輩が山手線に乗っていて地震に遭遇した。狛江の自宅までの帰宅記が送られてきた。⇒しょうすけレポート

●東京での話を聞くと、11日のうちに東京に向かわず、一晩、山形のホテルで泊まったのは「正解」だったのかもしれません。

●震度6とか7では、多くの家が倒壊すると書いてあります。ところが後で分かったことですが、地震の振動周期が1秒以下の短いものでした。1秒くらいだと木造家屋は倒壊しやすくなるそうです。細かい振動だと言われると、思いつきます。細かく「ガシャガシャ」音を立てて揺れたのです。このような振動に弱いのが、屋根のてっぺんの瓦の積まれた部分らしいです。だから、家々の瓦屋根が壊れていたのです。

●このレポートを読んだ多くの方々から「幸運だった」といわれます。まず、何と言ってもサービスエレアで休憩中だったことはラッキーの第1位です。前後30分ずれていたら福島から山形道のどこかを走っている最中に烈震に遭遇しているわけです。70の爺さんですからハンドルを取られるかもしれません。国見から白石までのわずかな距離の間にも道路の壊れた箇所がたくさんありました。

もっと恐ろしいのは、笹谷トンネルの中でトンネルの壁や天井からコンクリートのかけらでも落ちてきたらひとたまりもありません。おそらく、一瞬のうちにトンネルは停電したはずです。

もっともっと恐ろしいのは、家内が運転していた時だったら死んでましたな。

運がいいいたって、でもね、注文した牛タン丼!食ってないんだよ。

    


なつかしの蔵王スキー合宿より

大量なページになりましたので、別ページに移します。

⇒ 蔵王スキー合宿の歴史